沈黙は星々の乾き

(村井國夫さんの舞台トークやコンサートの曲目紹介など)

 

村井國夫 R75 俺のガラコン('19)

ストゥーパ〜新卒塔婆小町〜('18)

Espoir〜希望をもって〜('14)

シスター・アクト

今度は愛妻家('14)

ジャンヌ('13)

満月の人よ('12)

夏ノ夜ノ夢('06)

Broadway Gala Concert 2005('05)

エリザベート('04)

ジョイフルディナーコンサート('03)

ドン・ボスコ チャリティステージVol.5 テノールな男たち('03)

ミー&マイガール('03)

ドン・ボスコ・クリスマス・チャリティ・ステージ('02)

オスカー('02)

Thank you! Broadway! in NY('02)

Thank you! Broadway! vol.2('02)

フットルース('02)

I do! I do!〜結婚物語〜('02)

大阪から来た女('01)

ジョルジュ('01)

ABCミュージカル 火の鳥('00)

ブレヒト・オペラ('99)

危険な関係

あずなの観覧歴 '04.7.27

    

 

ABCミュージカル火の鳥 
2000年9月30日〜10月29日 大阪松竹座

解 説

■「火の鳥」とは「生きるとは何か」をテーマに、故手塚治虫が1954年から1988年までライフワークとして取り組んできた壮大なスケールの長編連作漫画である。その血を飲めば永遠の命を得られるという伝説の火の鳥を狂言回しに、邪馬台国の超古代から、人類が滅亡する超未来まで、過去未来、過去未来と時代を行きつ戻りつ、それぞれの時代の人々の独立した人間ドラマを描き、12編を描いて絶筆となっている。

■「鳳凰編」はシリーズ中最もヒューマニズムにあふれる作品として人気がある。奈良時代を舞台に、二人の対照的な男「我王」と「茜丸」の生き方をドラマティックに描き、「命の尊さ」「生きることの意味」を読者に問いかける。

■原作は角川文庫や角川のハードカバー版が入手しやすい。大きい版で読みたい方には朝日ソノラマ版(B5サイズ)もある。興味のある方は原作を探して読んで欲しい。

■手塚治虫の「火の鳥・鳳凰編」は私のバイブルだ。あの深い話を短い時間の舞台で表現できるわけがないと思っていた。ミュージカル、アクロバット、宙のり?何をバカなと思っていた。だが2幕で「A SONG OF JOY」(歓喜の歌)を聴き終えた時、私は感動で打ちのめされながら「この舞台はミュージカルとして原作と並んだ」と思った。心底うれしかった。

■原作をなぞるだけでは原作とは並べない。脚本と演出が素晴らしい。あの長い話をうまくツボを押さえてまとめている。この舞台独自の解釈や設定が非情によくできている。過去に殺人を犯している良弁の苦悩、観音像の真の作者はブチで、茜丸の実力が不確かなこと、朝廷での権力闘争に藤原仲麻呂を重要キャラとして入れたこと、我王が良弁を師と認めなかったことなど、話に深みを持たせつつ、しかもわかりやすくしている。それでいて手塚色がそこなわれていないのだ。大仏建造で有頂天の茜丸と群衆が歌う「アイム・ナンバーワン」は全員ヘルメット着用だし、「AONIYOSHI」では鳳凰像勝負の記事が載った新聞を皆が読んでいてとても手塚的。両曲ともほぼ全員で歌う場面が手塚漫画の1シーンのようだった。我王が即身仏の良弁と対峙するシーンでは、我王が彫った怒りや苦悩に満ちた人の顔の像が上からつり下がり、我王の心象風景を表して漫画のようだと思った。こんなに手塚的で脚本の練れた舞台なのに、当の手塚治虫本人がこの世にいないのが大変悔やまれる。きっと喜んで下さっていると信じたい。

■良弁にこの舞台のテーマ「苦しみつつなお生きよ」を言わせたのは正しい。茶目っ気の中に苦悩を抱えた良弁の孤高と慈愛を、村井さんは実に素晴らしく演じられたと思う。つい良弁の方が我王を見下ろしていて師弟のようなつもりで見てしまうが、苦悩を背負った良弁も実は我王と対等の立場で、もしかしたら良弁は我王に同じ悩む者として友情を感じていたかもしれない。救われたかったのは我王だけではない。だから舞台の良弁は殺された我王の手下にもお経を読む。原作の良弁は行きずりの死んだ男に「お経を読んだって一文にもならん」と言っているのにだ。良弁にとって「救い」とは何だったのか。「救い」=「人々を救うこと」=「“人の心をゆり動かす本物の何か”を生み出せること」だ。我王は彫ることで人を救うことができるが、政治の道具としての仏教を生きて説くことに疑問を感じた良弁に残された道は、即身仏になって人々を救うことだけ。2幕最初の「喝」合戦も、友情を感じ始めていたかもしれない我王の前で、そんな覚悟を隠していたのかと思うと切ない。「旅路のはて」はメロディの美しさと村井さんの声に心を奪われがちだが、本当は死にゆく男のこの世との訣別の歌だ。「苦しみつつなお生きよ」は生きて救われることのなかった良弁の魂の叫びなのだ。

■「A SONG OF JOY」は名曲だ。これこそこの舞台のテーマ曲だ。良弁の「苦しみつつ…」のセリフでひっぱたいておいて、直後にこの曲を持ってくるとは。役者さんも通路におりてきて、客席と一体になって歌う生命賛歌。ここにも手塚の精神がある。無心に彫る我王を背景に、現代の町や物を映したスライドがめまぐるしく切り替わり、生きることの喜びと“人の心を動かすものが人を救うこと”は普遍的であると訴えかける。生きることは苦しみだけではない。その証拠がラストで新しい命を抱いて現れるブチなのだ。

■茜丸がよく描けている。鈴木綜馬さんの真面目な雰囲気と美しい歌声がとても合っている。原作と違い観音像の目をブチが彫ったことで茜丸の実力が曖昧になり、真備に観音像をほめられた時に見栄をはり、大仏建造に名誉と権威を求めるところがとても自然だ。ただ、我王やブチにはできたのに茜丸には本当に“人の心をゆり動かす本物の何か”を生み出せなかったのか?と思うと本当に哀れだ。焼け死んだのも観音像を取りに行ったからで、彼にとっての(ブチとの合作でも)真実、大切で美しいものを守りに行ったためだと思うと皮肉でたまらない。焼け死ぬ茜丸に火の鳥が「次はおまえは蛍に生まれ変わります」と言うのも、速魚と同じ蛍かと思うと鳳凰編の輪廻転生をうまく取り入れたと思う。ブチと出会った時ブチに言われた「そんな目であたしを見るな」と全く同じセリフを、我王の腕を切る時にブチに対して「そんな目で俺を見るな」と言っているのも手塚的で秀逸だ。

■藤原仲麻呂が公演後半でぐっと良くなった。いや、悪役になったと言うべきか(笑)。山路和弘さんの細かな表情、声色、態度に、いずれ諸兄や真備を追い落としてやるという含みがビンビン感じられて目が離せなかった。友情を感じている茜丸の前でのすがすがしい話しぶりもよかった。茜丸に「私は変わりましたか?」と聞かれた時に「人は変わるものだ。真心が変わっていなければいいではないか」と答えているのに、茜丸の鳳凰像勝負も諸兄を蹴落とすために利用しようとしていて、真心という言葉が一番似合わないキャラだと思った。だからこそ茜丸が我王の過去の所業をばらした時に、「徹底的にやれ」という意味で我王の腕を茜丸に切るよう命じたのは納得ができた。最後に権力を手に入れたのは仲麻呂なので、悪役路線は合っていると思う。

■我王についてはエピソードをはしょった都合悟りを開いていく過程が伝わりにくかったので、師と認めていなかった良弁を、腕を切られた時にその苦悩を初めて理解して師と認めたのは、限られた時間の中での描き方としてうまい演出だと思った。1幕で我王が手下と歌う「ROB THIS WAY」は、ラップで聞き取りにくかったが、盗賊我王らしくて斬新でよかった。速魚が蜘蛛の巣にかかっていた蛍だったというのは、舞台効果としても(逃がされる蛍の光がとても美しい)設定としても速魚のイメージによく合っている。漫画では描きやすいからかテントウムシという設定だった。どちらの設定もメディアに合っていると思う。

■火の鳥は本当に何度見ても楽しくて感動する舞台だった。脚本、演出、役者の方々の個性、音楽、歌、装置、照明、CAGRのアクロバット、みな素晴らしかった。忘れてならないのが庄野真代さんの宙のり。何メートルか上空でつり下げられて歌われていたなんて!宙のりは腹筋を使うとか。よほど腹筋を鍛えていないと歌えないはずだ。透明感のある庄野さんの歌は火の鳥のイメージに合っていて、美しかった。エンターテイメントとはこういうものなのかと思った。

■10月1日のマチネで3階席で見た時、隣に座っていた中年の夫婦が、公演中メモをとる私に「お仕事ですか」と話しかけてきた。「いえ、趣味です」(仕事っていえばよかったんだけど、つい)と答えたのだが、終演後とても感動して「盛りだくさんでこんなに良い舞台とは思いませんでした。次はぜひ子供を連れてきます」と言っていたのが忘れられない。「火の鳥」関係者の皆さま、この舞台は確かに“人の心をゆり動かす本物の何か”を持っていたのです。ステキな舞台をどうもありがとうございました。私の心の中にまた一つ、大切な宝物が増えました。

(2000年12月24日)

ブレヒト・オペラ 
1999年10月22日〜12月9日 新国立劇場小劇場、大阪、横浜他

解 説
■ヒトラーが台頭してきた1930年代ベルリン。劇作家ベルトルト・ブレヒトには多くの協力者たちがいた。思想家ヴァルター・ベンヤミン、その恋人でソ連の文化使節アーシャ・ラティス、ソ連の劇作家セルゲイ・トレチャコーフ、ブレヒトの愛人で協力者のエリザベート・ハウプトマン(通称ベス)、マルガレーテ・シュテフィン(通称グレーテ)たちだ。

■1933年国会焼き討ちの翌日、ブレヒトは女優で妻のヘレーネ・ヴァイゲルと子供たちを連れてデンマークへ亡命。グレーテを呼び寄せ、デンマーク王立劇場の女優ルート・ベルラウの協力を得るが、ナチスの侵攻とともにスウェーデン、フィンランドと逃亡生活を余儀なくされる。夫と国を捨てたルートやフィンランドの女流作家兼大農場主ヘッラ・ヴォリヨキに支えられるブレヒトだったが、亡命に失敗した親友ベンヤミンは自殺、グレーテも結核を悪化させて死に、ブレヒトの芝居を上演できる国はアメリカしか残されていなかった。ヒトラーとスターリンから逃れて必死の思いでアメリカへ渡るブレヒト。

■第二次世界大戦が終わり1947年、非米活動委員会の召還を受けたブレヒトはアメリカを誹謗する戯曲を書いたとして非難され、アメリカにもおれないと悟りスイスへと旅立っていく。

■ファシズムや人種差別と闘いつつ、1933年から15年に渡って逃亡生活を送りながら戯曲を執筆したブレヒト自身について、彼を支えた女性たちについてもスポットをあてながら描いたのが「ブレヒト・オペラ」である。舞台の中央には黒くて大きな木の机。ブレヒト・ソングの旋律にのって、ブレヒトの物語が今始まる…。

■ハマってしまった。ブレヒト・オペラ。レミゼ以外の舞台にハマるとは…。村井さん見たさのはずが、気がつけば舞台そのもののリピーターになっていたのだから世の中ってわからない。

■実はブレヒトも千田是也もよく知らなかった。ブレヒトを日本に紹介したのが千田是也で、今回の舞台は千田さんの記念公演だそうだ。カタログを見て千田さんは、演劇を世に広めるために俳優座を結成したり俳優座養成所を作ったり、新国立劇場を建設するために40年も苦労して、結局完成した劇場('97年完成)を見る前に'94年に90歳で亡くなっていたことを知った。さぞや悔しかったことだろう。この度俳優座養成所の卒業生の村井さんをはじめ、千田さんゆかりの方々によるブレヒトの舞台を、千田さんが夢に見ていた新国立劇場で上演できたことは、なにより千田さんにとってうれしいことだったに違いない。そんな舞台を見る機会を与えられた私も、とても幸せだと思った。

■「ブレヒト・オペラ」。ブレヒトをよく知らない私には、ブレヒト入門のいい勉強になった。ブレヒト作品名も頭に入り、来年1月の林隆三さんの三文オペラも見るつもりだ。こういう気持ちにさせただけでもすごいと思う。通っているうちに練り込まれた脚本と演出にうならされた。ブレヒトの逃亡劇を楽しくするため、ブレヒトの芝居で使われる劇中歌を間に挟んだり、話を多重構造にして深みを持たせるのに、ブレヒト作品の一部を劇中劇の形で取り込んでいるのだ。しかも歌や劇中劇の内容がその前後の話の展開と深い関わりがあり、詳しい人はニヤリとするだろうし、知らない人でもそれはそれとして楽しめてしまうのだ。なんて贅沢な舞台なんだろう。

■歌のすばらしさはそれだけ聞きに行ってもよいくらい完成度が高い。歌の内容、訳詞、作曲、歌唱力、表現力、演奏、どれをとってもピカイチで言うことがない。

■鳳蘭さんや春風ひとみさんの安定した歌がすばらしかった。鳳さんの「スラバヤ・ジョニー」は女の一途さと男のつれなさをうまく表現していて心に残ったし、春風さんは高音が印象的で、「ソロモン・ソング」はうっとりと聞き入ってしまったほどだった。特筆すべきは村井さんの「風が吹くままに」。ショックを受けた。「スターズ」でも感じていたけれど、この方は私が考える以上に繊細で真面目な方だと思った。ピュアなものを表現するのがいかに難しいか。技術だけではないと思う。それはブレヒトの演技にも言える。

■愛人がいっぱいいて手伝わせるブレヒト。下手をするとイヤな奴だ。でも村井さんのブレヒトはとても愛情豊かで純粋で、ほほえましく、しかも才能があるインテリに見える。表情も豊かだ。女がついていきたくなる男を演じきったと思う。これもすごいことだ。レミゼが終わって2か月たっていないのに(しかも鳳さんはラ・マンチャがあったので全員での稽古はひと月をきっているはず)。先日までジャベールをやっていた方が、もうブレヒトになっている。何にでもなれてしまう村井さん。私たちが知っている村井国夫はまだまだ氷山の一角なのだ。

■随所に笑いをとれるところがあるのもすばらしい。名作と言われるものはたいてい笑えるところがあるものだ。イラスト付きの紹介ページ(週刊村井国夫2参照)で泣く泣くカットした場面がいくつあることか。なにより出演者の方々が楽しんでおられるように見えるのがステキだと思った。

■演出や照明、細かい気配りは、おそらく私が気がつかないところも多々あると思うともったいない限りだ。アーシャやヴァルターなど顔を白塗りにしているのはなぜかと思ったら、あれはドイツ表現主義で、白塗りは死者を表しているそうで(アーシャは戦後も生き残るけれど)、元々はブレヒトの一人称の芝居を考えていて、ブレヒト以外は白塗りにする案もあったとか。また、舞台下手や上手にイスがあって、出番待ちの役者が座っているのが見えるのはなぜかと思ったら、「これはブレヒトのお芝居ですよ」と観客に示しているのだそうで、他にも幕を使って効果的に人物をさえぎって見せたり、幕を他のものにみたててみたり、スクリーンに話と関係のある舞台写真や人物のシルエットを投影したり、ブレヒト自身を演じる芝居だからこそ、ブレヒトが使った手法や考え方を取り入れているのがとても興味深いと思った。

■自分独自の考えを持つことは難しい。その時々の社会について意見を述べるのはもっと難しい。でもそうした自分の訴えを、それだけでも楽しめる芝居という形で、わかりやすく人々に伝えることができるというのは、なんと崇高で幸せなことなんだろう。女たちがついていったのも、ブレヒトの愛情深さや自分の存在価値を認めてくれたからだけではなく、そういった社会的に意味のある創造的な活動に関わりたかったからだ。思想弾圧、戦争、ファシズムなどと闘い、最終的にはイデオロギーを越えたところで社会や人々を見つめ、芝居を書き続けてきたブレヒトの前向きで暖かい人間像が、この舞台を通して伝わってきた。どうして私がこの舞台のことがこんなに好きで、なぜ「風が吹くままに」を歌ってらっしゃる時の村井さんが、おだやかに輝いているように見えるのかがわかった。ブレヒトの逃亡劇は現代の神話なのだ。

■脚本や演出の方々は村井さんと養成所が一緒の方々で、脚本完成後も今回の舞台のいろいろな部分を気さくに話し合って変えてみたり、付け加えたりしたのだそうだ。ブレヒトが仲間たちと大きな机で討論し、芝居を作っていった姿と重なるような気がしてとてもうれしかった。村井さんをはじめ「ブレヒト・オペラ」を作り上げて下さった多くの方々、私はこの舞台に出会えた幸運と感動を忘れません。本当にありがとうございました。

(1999年12月)

ブレヒト・オペラで歌われた劇中歌です。実際ブレヒトの劇作品(カッコ内)で歌われるもので、作曲はクルト・ワイルやアイスラーが担当しました。

第一幕
●ビルバオ・ソング  byヘレーネ(ハッピー・エンド)

●バルバラ・ソング byヘレーネ(三文オペラ)

●人間の努力の至らなさについて byベルトルト(三文オペラ)

●ヒモのうた  byベルトルト、ヘレーネ(三文オペラ)

●全てか無か by全員(コンミューンの日々)

第二幕

●ソロモン・ソング by ルート(三文オペラ)

●後の世代の人々へ byベルトルト、ヘレーネ、ルート(スヴェンボル詩集)

●偉大なバールの讃歌 byベルトルト(バール)

●アラバマ・ソング  by女性全員(マハゴニー市の興亡)

●スラバヤ・ジョニー byヘレーネ(ハッピー・エンド)

●風はどのように吹いているか byベルトルト('48〜56年に書かれた詩集より)

 

危険な関係
1993年3月4日〜21日 パルコ劇場、3月21日〜30日 近鉄アート館

■ 実はこの舞台未見です。村井さんが大変気に入ってらっしゃるのと、私自身原作と映画(マルコビッチの)がとても好きなので、村井さんのヴァルモン見たかったなぁと悔しくて妄想で書きました。ここでは映画を例にとりつつ(舞台も映画も脚本家が同じ)「危険な関係」についてトークします。

■ 演劇ぶっく93年6月号の榊原和子さんの「しまりきっていない化粧ダンスの引き出しに、個人生活の秘密をのぞき見た後ろめたさを感じ、観客はこの危険なゲームの共犯者になる」という劇評が、この作品の内容をよく表していると思います。なんて綿密に作りあげられた恋愛ゲームであることか。見ている我々はいつしか、ヴァルモンに同化してトゥールベル夫人やセシルをくどき、早く落ちろとはらはらしつつ、同様にトゥールベル夫人になってヴァルモンのあの手この手の攻略にドキドキしているのですから。原作者ラクロ、天才!

■ ビデオを見返してみて、セリフのあまりの濃さにメモをとりまくりでした。「愛しながら貞操を守ろうとする女の姿はみものだ」「男と女の愛は違う。男は幸せな感じを楽しむだけ。女は幸せを与えることで満足するの」「これで1つ証明されたわ。虚栄と幸福は両立しないと」「勝つか、さもなくば死か」最後のセリフはメルトゥイユ夫人のもの。まさにそのとおりの作品です。

■ 脚本家も訳者も苦労されているように、この作品は言葉に魅力があります。トゥールベル夫人がヴァルモンを、言葉ではしりぞけつつも結果的に彼に思いのたけを語らせようとしているふしもあって、人間の本心が見え隠れする言葉の奥深さ、あいまいさにうならされます。原作が書簡体である為、脚本家も登場人物達を道徳的に裁いていないこともあって、各人がとても生き生きと語っているのも魅力的です。

■「友情」と言いつつヴァルモンに好意的な態度をとるトゥールベル夫人、愛人を持つことを開き直ったときのセシル、ヴァルモンに抵抗しきれず泣き出すトゥールベル夫人を不思議な面持ちで見たあと部屋を出ていくヴァルモン(この時恋に落ちた?)、夫人に逃げられた後の真剣な表情のヴァルモン、嫉妬するメルトゥイユ夫人、トゥールベル夫人を振るヴァルモンとその後のメルトゥイユ夫人との真っ向からの対決。このへんをぜひ舞台で見たかったです(くどくところは言わずもがな。村井さんの十八番です)。

■ 陰で糸を引いていたメルトゥイユ夫人こそ実はヴァルモンを愛していたので、彼の「また愛しあえる」に「甘い錯覚だわ」と本心を見抜いてしまいます。ゲームの幕をまさか自らが引くこことになろうとは。恋に妬かれるヴァルモンも嫉妬を抑えきれないメルトゥイユ夫人も、例え破滅が待っていようとBEYOND MY CONTROL─もうどうにもならない─。何という皮肉。この作品のタイトルの意味の深さ。

■映画ラストで全てが明らかになった後、化粧を落とし涙をこぼすメルトゥイユ夫人。自業自得とはいえ、独りの時素顔になってふと見せた彼女の涙に、女の意地と哀しさを見たような気がしました。

■ P.S. 人を愛する心を持っていたヴァルモンが好きです。村井さんのヴァルモン再演希望です。村井さん以外のヴァルモンは日本ではほかに考えられないです(マジ)。

(1999年7月)

 

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THE 村井國夫