主治医が初めて明かす
成田三樹夫ガンとの仁義なき戦い

「成田さんてこんなに人気のある人だったのですか」と若い看護婦が驚いたという。それほど彼の病室生活は遠慮深く静かで我慢強いものだった。白塗り公家役者は、実はたいへんな本好きで、教養も深かった。善人だからこそ、あの特異な悪役が演じられたのだ。

松崎松平・東海大医学部付属東京病院副院長 談

 私はびっくりしたんです。亡くなってから、こんな騒ぎになるとは思わなかった。彼自身、入院を外部に伏せていましたから、お見舞いに来られた方も限られていましたしね。

 うちの看護婦たちも、若い女の子ですから、成田三樹夫というひとは知っていたけれども、そんなに人気のあるひとだという感覚は持っていなかったんです。いわゆるミーハー的人気に支えられたひとではなかったですからね。

 それが亡くなったら、大騒ぎになったんで、うちの看護婦長から若い子まで、びっくりしてしまった。こんな方だったんですか、と。それくらい静かな闘病生活でした。

 私の家内が、彼とはいとこ同士の関係で、それこそ兄弟のようにしていましたから、その縁で私も彼とは親しくなったんです。そんなこともあって、今回、私が主治医をつとめることになりました。

 入院は昨年十二月でしたが、その時には彼自身、これはガンだなと悟っていたようです。二月に『ハムレット』の亡霊(注:私の手元の当時のぴあにはメクローディアスモと書いてあります)をやることになっていて彼はそれをやりたいと言っていました。けれど、手術を遅らせて、あの時やっておけば、ということになったんでは元も子もない。残念だろうけど手術をすすめると言ったら、一日か二日で決心して、わかりました、僕は言われるとおりにする、と。

 それで、十二月二十二日に胃を三分の二切除する手術をしました。

「ガンが移るか!」と冗談を

 奥様の話でも、このひとは鋭いひとだから、もし病名を隠してもわかるだろうし、隠していたことがわかったら、逆に不信感を持たれることになる。だから、すべて話して下さい、ということでした。

 病室ではせめて明るく時を過ごしたいということでしたので、家内なども「おなかが痛くなったのよ。三樹夫兄さんの病気が移ったんだわ、きっと」なんて言うと、彼は彼で「ガンが移るか!」なんて、冗談を言ったりもしていました。

 入院の時には、手遅れという言い方はしたくないんですけれど、すでにかなり進んだ状態であったことは確かです。進行性のガンだから、また再発するかもしれない。ならば早く手術をして、残った時間にいい仕事をしてもらった方がいい。二、三年先にはまた悪くなる可能性があるといったことも含めて、奥様ともよく相談して、手術をしました。

 麻酔からなにから、一流のスタッフを集めました。年末で忙しい時でしたが、「これだけは頼む」と、いろんなひとに無理を言って集まってもらいました。見えるところは全部取って、薬を使って残っているものは抑えて、これでしばらくもってくれればなあ、と。実際、我々はもっともっと良くなると思っていたんです。

 ところが、あまりにも進行が速かった。これは実は我々も、まいったあっていう感じなんです。こんなに速く進行してしまうとは思っていませんでした。ガンの方が勢いをもっていて、ワーッと広がってしまった。なんとかしてやりたいと思ったけれど、昔の会津藩の言葉じゃないですが、ならぬことはならなかったんです。

 だけど彼は非常に頑張りました。苦しいなか、よく頑張ったんです。たいへん、ひとに気を使うひとで、奥様にすら、自分が苦しいところを見せようとしないんです。ですから、ある意味では、見舞う方も辛かったと思いますよ。

 向こうは痛いとか苦しいとか、そういう状況に直面しているんですから、それを見ることは、近ければ近い人ほど辛い。奥様が一番辛いでしょう。お嬢さんたちも辛い。家内のように兄弟みたいにしてきた者も、辛かったろうと思います。

 私は医者であり、友達でもあったわけですけれど、ガンを縮めないと痛みは取れない、しかしこちらのやることに体が反応してくれない。すると、こちらもだんだん辛くなってくるんです。だからといって逃げるわけにはいかない。本人はもっと辛いんですからね。

 しかし彼はそういう状況のなかで、実に立派でした。苦しい時に奥様をいたわり、子供たちが自分の姿を見たら、どう思うだろうと思いやる。夜中に看護婦を呼んだり、当直の医師を呼んだりすることを、さっき呼んだんだからと控えてしまったりするんです。

 遠慮しないで下さい、みんなが良くなってほしいと願っているんです、これが仕事なんですから、と看護婦が言っても、彼は遠慮してしまう。いや、あれは遠慮じゃない、彼一流の思いやりなんですね。

頭脳だけは明晰に保ちたい

痛み止めの薬なんかでも、彼は我慢してしまう。彼としては、自分はまだ生きられる、生きられるうちに、頭がボーッとしてしまうのはイヤだと。思考能力が低下するのがイヤだというんですね。ベッドにしがみついて痛みをこらえても、なんとか頭脳だけは保っておきたい、それで彼は頑張るんです。

 それと彼がすごいと思うのは、一回も我々をなじったりしなかったことです。ひとに当たるっていうことがない。自分でコンチクショー、どうしてこういう体になっちゃったんだ、と言っていながら、我々医者とか看護婦には絶対当たらない。

 彼はなぜそうだったかというと、ひとつの哲学と美意識があったからでしょうね。人間こうあるべきだという美意識です。だから、彼の暮らしぶりとか日常を見ていると、いわゆる芸能人らしさが全然ないんですよ。ひとりで、じっと本を読んでいる時なんか、あれは学者の顔ですよ。

 病室に置いてあるものといえば、本ばかりです。文学書を読んでたり、詩の本を読んでたり、それと花の写真とか、山の写真とか、鯨の写真とか、自然のものをじっと見ているわけです。「おお、すばらしいなあ」と私が言うと、「きれいだろぉ」といってね。

 本当に真剣に本と向かい合っていました。テレビで相撲を見るときもありましたが、そんなときはむしろ心に余裕があるように見えて、私たちもホッとしたものでした。

 それから病室では、詩や俳句を作ってもいました。『詩句集』を作るつもりだったようです。「病中にて、っていうのばっかりだなあ」なんて言っていましたけれど。病室のひとつの窓から、いろんなものを見て、感じていたんでしょうね。

 彼は基本的には学者なんです。非常に文学に造詣が深いし、しかもそれを感性豊かにとらえている。家内の父親、つまり彼には叔父にあたるひとが、独文学者なんですけど、「三樹夫は本当の本の読み方ができるやつだ」と言っていたことがあります。

 彼のお兄さんは東大を出て岡山大学で独文学の教授をしていた、純粋な学者です。それに対して、彼は役者の道に進んだけれども、役者でありながら、どこか学者的な要素を持って本質的なものを追究しようとしていたように思います。

役者やめたら文学で生きる

 彼自身は山形大学の英文科を中退していますけれども、決して学校が嫌いだったわけではなく、基本的には演劇の才能があったから、大学をやめたんです。

 才能のある人間ていうのは、縛られた環境から飛び出すんでしょうね。たとえば音楽大学へ行っても、別に学校を卒業することが目的じゃなくて、その前に活躍してしまうひとがたくさんいるのと同じように、やっぱり彼には、その才能があったんだと思います。

 それでいて、彼は言葉について常に正確であろうとしていたひとでした。いつも部屋に英語の辞典と、国語辞典と、歳時記とを置いてあって、彼はそれをしょっちゅう引くわけです。それは芝居のことについても同じで、彼は実によく本読みをする役者でしたね。

 役者やめたら文学で生きるんだ、なんて去年も話していたことがあったんです。まあ冗談半分なんでしょうけど、こっちも食べていけるかねえ、なんて言っていたんですが。本気でないにしても、何かそれだけのものを書こうとしているんじゃないかな、とは思いました。

 治療については、奥様は全部知らせてくれ、ということでした。全部のことを知ったうえで、最後まで見届けたい。リンパ腺転移がこう来ている、肺はこうなっている、肝臓にこういう影響が出てる、腎臓にこういう影響が出てる、全部のことを教えてほしい、と。正確に、それを知ったうえで、最後まで見届けたいんだ、と。

 ですから、私はそれを言いました。ある程度のモディフィケーション(修正)は加えながらですけれども。こうすれば、こうなるかもしれないから、この薬を使わせてほしい、ということは言いました。

 彼にも、ひとつひとつの治療について説明していきました。ガンとかそういうことは、言葉に出しません。そんなことは、お互いにわかっていることですから。この薬はこういう薬です、ちょっと辛くなるかもしれません、、熱が出るかもしれません、そのかわり後で、根本的な意味で、痛みが引いてくれることを期待します。これこれを期待します。我慢して下さいね、ということです。

 彼はただ「御苦労様」と言うだけでした。

 そんななかで「自分はもう充分生きたから、いいんだ」というようなことを、何度か口にしたこともありましたし、覚悟のようなものはあったと思います。そう言いながらも、なんとかもう一度、復帰したいとも考えていたと思います。「(手術から)二週間たったから、そろそろじゃないか」なんて、勝手に退院の日を決めていたりということもありました。

 病室で、ストレッチのようなことも、しょっちゅうやっていました。もしチャンスがあったら、復帰してやるんだ、という執念ですよね。それまで体をなるべく柔らかく保とう、ということだったんでしょう。

 そんな闘病生活の中で、人間の尊厳をキチンと保っていました。うちの看護婦たちも「プライドをきちっと保っておられる。立派な方ですね」と言ってましたし、彼は彼で「ここの看護婦さんは綺麗だね。表情がいい。非常によくやってくれる。心が顔に出ているよ」と言ってました。二カ月足らずの入院生活の中で、若い人たちは彼を尊敬する。彼は彼女たちをいたわる、という非常にいい人間関係を作ってましたね。

 奥様も娘さんたちも、とても立派にしていらしたし、別に何か宗教があるとか、そういうことではないんだけれど、醜さというものが、その周囲にまったくなかった闘病生活でしたね。一種の哲学でしょうし、やっぱり人柄ということなんでしょう。

善人だから演じられた悪役

 最後をどうするかは、ある段階までくると、苦しみとか、いろんな環境を考えて、こちらが操作することです。

 私としては、身内として見るにしのびない面もあり、これでダメだと思った時には、なるべく静かにスーッとうまいタイミングで、ランディングをさせようと考えていました。それで、ある程度の調節をしていったんです。

 もちろん、最後のきりぎりのところまで意識はしっかりと持っていました。でも、最後の最後は、眠るような死でした。

 最期の言葉というのは、特にありません。それはもう、日頃の言葉で通じているんです。奥様に対しても「さよなら」とか、そういう言葉はいっさいありませんでした。

 彼が常々言っていたのは「いざとなった時に人間は泣くな」ということです。奥様も「人前での涙は安っぽくなるから」って、いつもそういうふうに言われていたから、私は泣かないって。それはもう立派でした。

 彼の死で、はからずもファンの多さを認識することになりましたが、そのひとたちがなぜ、彼のファンになってくれたのかと考えてみることがあります。それは、彼の凄味のきいた声とか、グワッとにらむ顔とか、そういうことに惚れたんじゃないんだと思うんですよ。

 悪役と言われますけれども、善人が演じたからこそ悪役として光ったと思うんですね。あんな優しいひとだから、悪役が出来たんですよ。悪人が悪役やったら、人間の悪がそのまま表へ出てしまって、それを芝居として見たら、醜くてしょうがないと思うんですよ。

 彼はファンのひとに迎合しなかった。ゴマをすらなかったと思います。だけれども、最大限のサービスをしていたと思います。気を使っていたと思います。ファンが求めるものを、自分が努力して、最大限に演じていたと思います。それを認めたうえで、多くのひとが彼のファンになってくれたんだとしたら、それは非常に価値のあることですよね。

 こういうことは、これからの若いひとたち、役者さんたちにも、ぜひ見習ってもらえればと思います。迎合はするな、サービスはせよということを、彼は身をもって教えて逝ったんじゃないでしょうか。

週刊文春1990年4月26日号より転載しました。
転載についてはH28年5月3日に週刊文春に問い合わせし、返事待ち中です。転載に関してご迷惑がかかるようでしたら削除します。


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